今西 中通 1908-1947 高知

高知県高岡郡窪川生。本名は忠通。 1927年城北中学を中退し上京。川端画学校に学ぶ。1930年協会研究所、独立美術研究所に移り、里見勝蔵、前田寛治に学ぶ。1931年より独立美術協会展に出品、35年D氏賞。
36年同会会友。
40年上原久仁子と結婚。肺結核になり療養生活を送る。
47年独立展に出品し会員に推されるが、肺結核のため歿。

今西 中通  幻の画家
 中通を幻の画家というのは、中通死して凡三十年後の今日、中通が学んだ独立美術研究所時代の先輩林武画伯が、美術雑誌「求美」に幻の画家と題して、今西中通思い出の記事を掲載したことによって博く紹介されたためである。幻の画家今西中通は画家名で、本名は今西忠通と言い、明治四十一年十月三十日旧松葉川村中村今西由馬の五男に生まれた。少年時代には家に多くの資産があり、父は松葉川村長や県会議員を勤めるなど、恵まれた家庭で育った。松葉川東尋常小学校(現在の七里小学校)から窪川高等小学校一年終了後、高知県立城東中学校(現在の追手前高校)に入学し、昭和七年十九才の時画家を志して上京、東京川端学校に学び、更に独立美術研究所に学んだ。昭和十年独立美術展に出品してD賞を受け、画壇への第一歩を踏み出した。昭和十三年都新聞社に入社してカットを描きながら画の修業を積んだ。同十五年上原まつ(東京の人で久仁子とも言い中通の没後藤本氏と再婚)と結婚した。この時から中通の苦闘が始まった。この時父は既に病没しており、父が在世時代重役をしていた高知商業銀行は昭和七・八年の世界経済恐慌の嵐を受け倒産し、その余波を受けて今西家の資産は大部分が失われていた。その上中通は肺結核に罹り信州蓼科高原で療養に努めていたが、翌十六年には香川県坂出に移り療養に勤めながら画の道の精進を続けた。昭和二十年福岡市に移り、研究所を設立しようとしたが、その研究所はアメリカ進駐軍に接収せられて目的を果たすことが出来なかった。こうして貧と病躯に攻められ、戦災の焦土福岡で、後藤基助と言う人の援助のもとで苦しい生活と画への精進を続けていたが、病状は日々悪化し、昭和二十五年六月十日、三十九才で福岡市一本木町二二二番地で苦闘の生涯を終った。
 明るみに出ることなく優れた才能異色ある作品を世に残したが、昭和四六年には福岡市で、三十五年には東京丸美で、三十五年には高知大丸で、三十六年には神奈川県立美術館で、四十二年には京都国立近代美術館でその遺作展が開かれ、二十七年には平凡社発行の世界美術全集日本版に作品が掲載された。  貧苦ー病苦ー戦後の混乱、そして放浪の末筑紫の果てにはかなく消えていった中通、既に人から忘れられようとしていた。昭和四十六年一月林画伯が美術雑誌「求美」に幻の画家として中通の記事をのせて以来、俄に日本画壇に注目されるようになり、画商はその作品を求めて数十万円から数百万円の高い評価をつけるようになった。  昭和四十七年五月二十日から二十八日まで、高知市文化祭行事として、県立郷土文化会館で、その遺作品百余点が一般へ公開された。尚その遺作品は生前の妻であった京都在住の上原まつが大部分を保管しており、窪川町内にもその二・三点が残されている。由来窪川町には、名ある画家音楽家文学家或は彫刻家等の芸術家が殆どない。中通はこの芸術家の育たない窪川に、唯一の光を放った男である。

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